2015年4月30日木曜日

【学問のミカタ】 現在の選挙制度で民主主義といえるのか。 
~選挙について政治学藤原先生に聞く~



授業「国際関係論a」 藤原 修教授

皆さんこんにちは。
今日は【学問のミカタ】シリーズです。

お題は『選挙』。先週末に統一地方選がありましたね、20歳以上の学生の皆さんは、投票に行ったことと思います。タイムリーなこの話題について、各学部の観点から、記事を書きます。今回から経済学部も参加することになり、これで4学部から【学問のミカタ】を発信することになります。

【 学問のミカタ:テーマ『選挙』】


現代法学部は、過去にも選挙について記事を寄稿してくださった、藤原 修先生の登場です。

【過去のブログ記事へ】週末をつかって、ちょっと学習。『集団的自衛権』について学ぼうその1~政治学藤原先生に聞く~
【過去のブログ記事へ】「わたしたちにできることがある。」選挙に行こう~東京都知事選~

藤原先生は政治学者ですので、ずばり「選挙」について書いてくださいました。ではどうぞ。


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選挙

藤原 修
 選挙は民主主義の基本とされている。しかし、いま、選挙が問題だ。

 今月、全国各地で地方議会と首長の選挙が2回に分けて一斉に行われた。しかし、投票率は極端に低い。知事選、道府県議会選は50%を下回り、市長選、市町村議会選も同程度に低い。さらに、市長選では3割が無投票当選となり、地方議会選でも無投票のケースが相次いだ。地方選投票率は史上最低記録を更新しつつあり、無投票を含めて、地方選の空洞化が指摘されている。

 同様の問題は国政選挙でもみられる。衆議院で圧倒的多数を占める自民党も、有権者全体での得票率を見れば、50%をはるかに下回る票しか得ていない。また、各種世論調査では、政府与党が推進する原発再稼働や集団的自衛権行使をはじめとする安保法制改革は、おおむね反対が賛成を上回っているにもかかわらず、反対の声を無視して強引な政策がすすめられている。それどころか、自衛隊の海外での武力行使の機会を拡大することになる重大な安保法制改革は、前回の衆議院選挙でも主要争点に取り上げられず、今回の統一地方選でも、これに並行して国会審議を行うことを避けるというふうに、重要な争点であるがゆえにむしろ選挙で争点化することを避けるという、国民主権の原則に反する政治運営が行われている。

 要するに、選挙が機能していない。これをどう解すればよいのだろうか。どうすればよいのだろう。

 そもそも選挙は民主主義において必要不可欠なのだろうか。民主主義とは、突き詰めれば、集団の政治行動の自己決定である。平たく言えば、自分たちのことは自分たちで決める、誰か特定の人に勝手に決めさせない。だから、そもそも少数の人々を選んで、彼らに集団の意思決定を託するというのは、本来の民主主義ではない。実際、少人数のグループであれば、みんなで決めるということは日常的に行われている。しかし、これが国家規模、小さくても数百万人、大きければ数億人という単位で、「みんなで」決めるというのは実際上不可能である。加えて国家規模になると、決定すべき重要な政治案件は非常に多数に上り、また簡単には決められない複雑で専門的な事項がむしろ普通である。そこで、「みんなで決める」直接民主制に代えて、代表を選挙して彼らに決めさせる代表民主制が民主主義の一般的な制度となる

 しかし、政治の行方を最終的に決める主権者は、あくまで国民すべてであり、その国民の意思を離れては、代表民主制はあり得ない。だから、選ばれた代表が国民意思を離れた決定を行うことがないように、代表と国民をつなぎ止める工夫や制度が欠かせない。例えば、重大な案件の意思決定、特に戦争と平和に関わるような安全保障上の問題、戦争に匹敵する重大災害につながりかねない原発などは、住民投票、国民投票などの直接民主主義的手法が活用されるべきであろう。また、政治的に独立した自由なメディアの存在は、政府・議会の監視において不可欠であるし、メディアに限らず広く国民に情報を公開することも重要である。

 他方、みんなで決めたから必ず民主主義になるというものでもない。みんなが誤った情報に基づき、誤った判断をすることもある。したがって、間違った判断をしても、これをただす機会が保障されているという、やり直しのきく意思決定を工夫しなければならない。例えば、戦争や原発事故など、取り返しのつかない重大な結果をもたらしうる意思決定は、どれほど慎重であっても慎重過ぎることはない。さらに言えば、みんなで決めるという時の「みんな」とは、100年後200年後に生まれてくる子孫たちも想定されていなければならない。人間が生きていくのに必要な良好な自然環境や資源が、何百年かの後には消滅しているようなものの決め方は、世代を超えた意味で民主主義的ではないのだ。

 このように見てくると、いまの選挙は、民主主義を機能させるためではなく、むしろ、民主主義を掘り崩していくことに「民主主義」の装いを与えるだけのものに成り下がりつつあるようにも見える。では、投票すべき候補者が見あたらないといって、棄権するのがよいのであろうか。積極的に棄権するのも一つの意思表示だという人もいる。しかしそれは、正しくない。選挙という制度から離れてしまうことは、それに代わって民主主義を機能させる制度が確保されていない限り、民主主義の危機を一層深めてしまうことになるからだ。結局、月並みな結論だが、しっかりすべての選挙権は行使し、加えて、主要な政治案件を日頃から学び、判断力を養い、日常の政治監視を怠らないことが、民主主義の王道である。

来年から選挙年齢は18歳に引き下げられる見込みだ。とてもよいことだ。各世代で若者たちの投票率が一番低い。これを機会に、公共政策に関心を持ち、多くの苦難を経てきた日本の民主主義の歴史を学び、一票の重みを感じつつ主権者としての判断力を身につけてほしい。若者たちが真剣に、大挙して選挙に向かうようになれば、きっと日本の政治はよくなると私は信じている。